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千手観音由来

お乳の寺として間々乳観音の名で親しまれている当寺の御本尊十一面千手観世音菩薩は、霊験あらたかなる秘仏とされ、はじめ霊峰小牧山の観音洞に安置され、弘法大師空海が鎮護国家並びに大師入唐などの大願成就を祈念し大師自ら造立し示現された尊像といわれる。秘仏十一面千手観世音菩薩は現在は開帳されていないが、高さ一尺五寸の金銅仏である。また、観音堂正面の観音像は昭和59年5月、当寺三大法要の折に入仏開眼された新本尊で、総丈8尺(約2.6m)、桧の三千年材を使用した一木造りの観音様である。

略伝記

◎明応元年(1492)頃の事。狩人が小牧山で狩りをする折、八頭いるうちの七頭の鹿を射た。その際、鹿はたちまちに七つ石と化し、五色の雲が現れ、四方に御光を放つ観音様の御尊像を発見する。山には大音響が轟き渡った。

かすかに「小牧なる飛車の山の狩人は八つある鹿を七ついしかな」という声が三度聞こえた。その光景を側で見ていた村人によりその霊験が伝え広まり、村人と狩人のみで草堂を建てて風雪を防ぐこととなった。その後狩人は平生の殺生の業を悔い改め、髪を下ろして出家し、日々尊像に奉仕することとなった。明応3年(1494)忽然と現れた旅の老僧が草堂へ参拝した折、尊像を一見し、「この尊像は、空海(弘法大師)が入唐するとき、鎮護国家を祈って自作した金銅仏で、大師がはるかな異国から日本泰平を日々懇祈なされたもの。大師帰朝ののちは密室に移して奉仰されたものである。大師亡き後高野山に奉納された霊仏で、今ではこのことを知る者はほとんどいないであろう」と静かに述べた旨が当寺の縁起に記されている。

やがて林心斎により永正2年(1505)小牧山中腹に草堂が改めて建立された。それから約70年後の天正年間(1573~1592)に、小牧山を砦と化してゆく乱れた時代となり、飛車山龍音寺住職祖玄和尚(浄土宗)によって合祀されるに至る。

小牧山 安産 授乳 交通安全

御利益

昔々、村の南はずれに新婚の夫婦があり、子供が一歳にならないうちに夫が他郷へ商売に出て、旅先で亡くなってしまった。家は貧しく親戚にも母子を養う力が無かった為に、大変生活に困った。母親の乳が出なくなったのも自然の成り行きで、村の老人がお米を少し贈った。しかし急には乳も出ず、「どうせ死ぬなら」と山上の観音様にお米を供えて死後の安楽を願おうと、尊像の前で無心に祈り続けた。山を下りて家へ入るとともに、空腹感がなくなり乳房が張ってきた。お乳があふれ出て、幼児も日に日に体力を回復したことは言うまでもない。さらに余ったお乳は近所の乳の足らない子にも与えてあげた。これを聞いた村人は大変驚き、お乳をもらった人の御礼で母子の生活も成り立つようになり、幼児も成人して永禄の末(1569年頃)も母子共に健在であったという。その後も一袋の米を尊前に供えて妙徳を得る人多く、今日までお乳の御利益を授かる人が後を絶たない。

また永正年間(1500年頃)伯楽と呼ばれる程の農夫がいた。この者に頼むと病馬が健馬となり、駄馬を駿馬にするという妙効があった。当時の馬は生活や交通の要であり、その話を聞いた遠近の人が集まり伯楽の門前は市となった。晩年に旧友三人を招いて次のように語った。「私はただの凡人で、調馬の術を施したのは、ひとえに山の観音様であって、全く私の力ではありません。実は病馬が来ると主を帰らせ、馬を洗い清めた上で、密かに馬を曳いて御堂まで登り、一心に祈願したのです。」そして山を下り一晩たつと、見事に治ることが多かった。これが曳駒山ともいわれる所以でもある。交通手段が馬から車へと変わった現代においても、交通安全祈願またはペットの健康守護として継承されている。

間々観音 御利益
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